限りなく創作に近いステファノさんの本 1&2巻

ステファノ生存IF 過去人格捏造

生きて幸せになってくれと言う意識だけで書いている小説です。

限りなく創作に近いステファノさんの本 1&2巻
限りなく創作に近いステファノさんの本 1&2巻

Act1

やけに視界が白く、光が目の奥に刺さるように眩しい。
水に溺れ、揺らぎながら水面へ向かっているような酩酊感。
背筋から首筋にかけて神経を引き剥がすような痛みの強い刺激、視界の定まらない車酔いめいた不快感……。

気づいた時、彼はいつかの記憶にあった古めかしいバスタブの中にいた。

あまり清潔とは言い難い溶液に満たされた中へ、服を着たままの姿で浸かっている。
ずいぶん長い間同じ姿勢でいたのだろう、身体に力が入る感覚がまるでなかった。
あたりを確認しようにも、目が回って碌に状況が掴めない。

首の挙動が許される範囲で真っ直ぐ前を見つめると、天井は鏡面だった。白い光でぼやけた視界に、紺青のスーツに革靴、右目を長い前髪で覆った、見慣れたがくたびれた自分の姿が見える。
ーーここ暫くあまり鏡を意識していなかったように思う。そうか、自分はこんな姿をしていたのだったか。
不思議な感覚でその姿を見やると、鏡面の中の自分も愕然としたような表情でこちらを見下ろしていた。

バスタブの中の何かの溶液は、時間の経過とともに赤黒さを増していくように思えた。
ーー絵具であったならいい色だ。反射的に考えたが、これは自分の血なのだろうかと思い至った。
それならばこの酩酊感も当然だ。おそらく自分は今、失血死しつつある。

そこまで思索を巡らせた時、すぐそばに何者か──それも複数名──慌ただしい気配があるのを感じた。
天井の鏡にも映りにくい角度で、元より欠損している右目の側にいるらしく姿は目では感じられない。
視界に入れようと首を巡らせるのもひどく怠かった。

「生存者発見!搬送します」

生存者。

この人生においてそれほどこれまでの記憶に馴染んだ──だが同時に違和感の強い言葉はなかった。

──まさかーーいや、ああそうか。
夢は、終わったと言うことか。
甘美な夢だった、しかし志半ばで潰えた。
仮想現実の美しい悪夢が終わり、ここからはまた退屈な現実の再開と言う事、なのか。

──芸術に全てを捧げるつもりで入ったあの世界から、また生きて帰るとは皮肉だな。

回らない頭でそこまでを思ったが、しかしそれが最後だった。
出血した挙句液体に長らく浸かっていたために意識が一時的に戻っただけでも幸運というところだったろう。
強い虚脱感に襲われ、彼の意識は再び現実の闇の中へ溶けていった。

次に意識を取り戻した時、彼の世界は一変していた。
この奇妙な感覚をどう受け止めるべきなのだろう。

病室の光射す窓辺に看護師が気まぐれに置いた、誰かの見舞いの花束からこぼれた花を一輪いけたささやかな花瓶。
風に揺れ頼りなくも健気に咲き誇る花弁を、彼は美しいと感じた。

医者の説明ではこうだった、「身体中銃痕や火傷だらけな上に失血が激しく、大量に輸血しながら身体に残った銃弾や金属を摘出し、全身にわたっての大手術が必要だった」と。

そしてその生命維持の為の「大手術」は、元から損なわれていた右目の視力以外のもの全てを、知らずと彼へ取り戻させていた。

憑き物が落ちたかのように、彼は当たり前の花をこそ美しいと感じ、空の光に癒しを覚えた。
強い「創作」への渇望は消え、あれほど身を焦がした深紅の芸術への憧憬はすっかり息を潜めている。
──この感覚は──目を喪う「あの日」以前の、日常の感性だ。

少し前の自分だったなら、きっとこの意識を「美を解さない野蛮人」のものと落胆したかもしれない。
しかし。
今となっては、あの頃の執着こそまるで理解し得ないものだ。
他でもない自分のものだと言うのに、記憶の中の自分へ共感出来る点がまるで無かった。別人の記憶を動画再生でもしているかのようだ。
しかしながら酸鼻と言える記憶の中の惨たらしい「芸術」に嫌悪感こそないのは、戦場で見た「景色」と、さほど変わらない為かもしれない。

──命尽きる様を収めた芸術…右目を奪い、新しい世界へ目を開かせた砲弾。

そして、あの真紅の芸術を花開かせた異世界…そうだ、ユニオンは?メビウスは一体?

長い入院生活の間機会を伺ってはいたが好機がなく、退院前の面談でようやく医者に「疑問」をぶつける事が出来た。
「自分はどこで保護されたのか、ユニオンはどうなったのか」と。

医師の回答はこうだった、困った子供を宥めるような表情で。

「戦場カメラマンである君はイエメン内戦での撮影で事故に遭いここへ緊急搬送されて来た、どうやらまだ記憶に混濁がみられるようだな」

──彼は瞬時に理解した。「そう言うこと」だ、と。

メビウスは「全て忘れろ」と言っている。黙って過ごす限りは解放する、と。

──それならば。

このままもう一度生き直す他はないだろう、芸術への執着と価値観を失い、日常の凡庸な感性と命を残したこの身。
幸いこの世界(現実)には真紅の芸術の罪科は及ばないようだ、警察がつけている気配はない。
かつての「疑惑」なら全て解消してきた記憶がある、もう捜査の手を恐れる必要も無いだろう。

──さて、では、何をしたらいい?

「質問」のせいなのか–(おそらくそうだろう)–特段高額な医療費を請求されることもなく退院となった彼の側には、Stemでも時を共にしたVERITAS社製のカメラがあった。
時を操る能力も失くし、現実ではなんの変哲もない古ぼけたカメラに過ぎない。
だがそれは古くから時を共に過ごし、過酷な戦場を乗り越えた無二の相棒だった。
失った芸術への渇望と引き換えに、むしろこちらの記憶は確実に蘇ってきている。

音楽の伴奏めいて断続する銃声。
たまに起こる大きな爆発音、誰かの怒号。
そのさなか夢中でシャッターを切った、バズーカ砲のような望遠レンズを覗いて自分こそスナイパーと思われ撃たれる確率に目を閉ざしながら。
生きている実感を、ああ言う場でしか感じられないどこか壊れつつある人種だった、戦場カメラマンを選んだ自分と言う存在は。

ーー再び、戦場へ戻るのも良い。

世の中に戦乱の種が尽きることは無い。
政治情勢の変化で一つの戦場に平和が訪れたとして、再びどこか他所の土地で別の戦乱が勃発する。それが人の世の性だ。
医者の言葉にはイエメン内戦とあった、きっとそこはまだ荒れているということだろう。なら自分のような根無し草にもそれなりの居場所はある。

ーーだが、それでいいのか。

病院で捕まえたタクシーの座席で目を閉じ、記憶の中の自分を反芻する。
STEMでの自分は、何かに飢えていた。それは承認欲求なのか、あるいは「生存」欲求なのか。
おそらくそれまでの戦場での生活で自分はきっと、知らずと傷ついていたのだと思う。
他ならないその痛みが、砲弾のカケラによって嗜虐性として呼び覚まされた。
もしもまた戦乱の中へ身を置き、同じ渇きに身を焦がしたなら–次は一体、自分はどんなモンスターへ変貌していくことだろう?
そしてそれは、あまり望ましいとは思えなかった。特に根拠はない感情–ただ意識に浮かんだのは青いドレス、過去失った「友人」の姿。
きっと、彼女なら–生きるよう、自分へ言うだろう。

市井で生きなおすのも、一つの道か。
幸いカメラマンとしての職は自由だ、好きなものを撮りそれを売る。
舞台は戦場から日常世界へ移して、穏やかに生きることを試してみようか。
ーーそれが向かないのなら、二度の目覚めを経た自分に相応しいのは結局戦場だったということになる。

……その場合、今度は事故の砲弾がとどめを刺してくれることを願わなくてはならなくなるな。

皮肉な笑みが、彼の整った輪郭の片頬を歪めた。

「行き先、悪いがさっきと変えてもらえるか。xx通り▼▼まで」
まずは長く戻っていなかった自宅を確認したい。そもそも、まだあるのだろうか。
長らくの不在で人手に渡って取り壊されていても不思議はなかった。ましてあのメビウスの管理下にあったと思えば、何があっても不思議はない。

想定に反し、ユニオン移住へ招待を受けたあの朝のまま、自宅は時を止めてそこにあった。
フィレンツェの街では手狭な集合住宅が主流だが、彼の家は「邸宅」と呼ぶに相応しい豪邸だった、男の一人暮らしには分不相応な建造物と言える。
戦場カメラマン時代に、決死の作戦へ出るとある「ジェネラル」(仲間内からそう呼ばれていた―)から託されたものだ。フィレンツェ出身と知るとやけに目をかけてくれた壮年の男–、誰も身よりはなく心残りはないが、管理する者がなくなる家だけは無念だと言っていた。
それまでに住んでいた小さなアパルトマンと比較しえない歴史的建造物―なんでも過去には国外の政治家が住んでいたものらしい。
金銭的には「片付いて」いる、ただメンテナンスには費用と手間が掛かるため、長く住んでくれる存在が要るという。
しかし老朽化もまだ、それほどでもない。
扉がきしむとか、廊下が完全な水平ではないとか、無茶をすると排水溝が耐えられないとかの問題はあれど一人で暮らすのにそう大きな障害でもなかった。(ごくまれにある地震への不安はあるが)
部屋数こそ多く持て余し気味だが、今となっては気に入った家だ、「開眼」した自分でも住み続けていた程度には。

鍵を開くと、長らく留守にした家特有の少しもたついた空気を感じた。
冬だったなら暖炉をつけても、家を温めるのに苦労したかもしれない。
幸い今はまだ日差しに暑さの残る初秋、窓を開けて換気をしたらすぐに過ごしやすくなるだろう。空気に黴の気配はなかった。

きしむドアを開け、かつてしていたように靴のまま中へ踏み込む。
少し暗い室内、古い窓から見える日の高い午後の空。
園芸に興味はないので庭木は全て伐採済みだが、家の前の道には街路樹のイチョウが葉先の色味を変えて秋の訪れを予言していた。

室内を見て回ったところ特に変わったところはない。電気も止められてはいないようだ、留守の間も料金は無事支払われていたということか。
口座の確認をした方がいいだろう……手もちには当座の金はあったが、口座へどれだけの貯えがあったかは記憶に朧だった。
場合によっては、あまり経済的余裕はないかもしれない。金策として仕事に追われる可能性もありそうだ。

住み慣れた家だが、「開眼」していた頃の自分の趣味が今の彼にはしっくりこず、ファブリックが少々華美すぎるものと思える。
真紅に金糸の入った豪華なカーテンは建物としては似合っているが生活するにはあまり落ち着かない。
色と模様はもう少し控えめなものへ買いなおしを検討したい。
過去の自分と意見が合わないとはなかなか稀有な経験だ。誰かに語ったとして、信用されることも難しいだろう。

「……」

少し落ち着きたい。
華美なカバーをはがしブラウンの革張りのソファへ腰かけたところで、ふと空腹を自覚した。
思えば朝も昼も食事はとっておらず、病院食にも飽きている。何か買って帰るのだったがあいにくそのまま戻ってしまった。
自分のことだ、長期の留守を前に冷蔵庫の中身はさっぱり片づけてあることだろう。
ーー食事に出るか、買って戻るか……。

いや、そもそも今の姿も良くない。
病院内で特に困ることはなかったが、退院となると適したのはSTEMで着ていた服以外になく、今はあの時の服装のままだ。
汚れた生地はクリーニングで少しは回復して見えるが、一度血液のついた服はそうと分かっているとあまり心地いいものではない。
一度シャワーを浴びて着替えたい。

暫くの逡巡ののち、彼は部屋を探してタオルと着替えを手にしてシャワーへ向かった。
水も湯も問題なく出るようだ、古い家だけにタンク式で湯量に限りがあるのだが独り身では特に苦労はなかった。

体に残る無数の傷跡。それぞれが色濃く記憶に結びついている。
STEMで負った傷は深くはなかったものか、医師の手当のおかげか跡もなく回復している。
今残るのは戦場で負った古傷だった。カメラマンは決して戦闘要員ではないが、それ故に狙われるものだ、自分で被弾した弾丸を摘出したこともある。
幾度も死線をさまよい、結果得たものが銃弾と狂気と死だとしたら–。

「僕の生はあまりに、悲しすぎるな」

湯を浴びながら、感情が口をついてこぼれた。聞くものもない、それはただ彼の心からの声だった。

To be Continued…

カテゴリー: Novel

ジャラシウス

絵描き兼文書き 最近メカクレに開眼した