極めて限りなく創作に近いステファノさんの本5
穏やかな時間が過ぎていた。帰郷した時深まる秋の入り口にあったフィレンツェの日差しはいつしか周り、今は日の高い初夏を迎えている。
隣家の庭は青々と茂り、今を盛りと多彩なアイリスが水彩画のような彩りを湛える。
先日はバルディーニ庭園の藤の花のトンネルが見事にファインダーを彩ってくれた。モデル不在で観光客を撮るよりないのは人撮りのカメラマンとして少々物足りなくもあるが、花の都この街(フィレンツェ)の春はとかく美に事欠くと言うことがない。食の彩りも増え、旬のアスパラガスをリゾットにして楽しんだりもした。食いしん坊の黒猫(フォーカス)は野菜よりもっぱら肉派で、決して満足そうではなかったが。
「平和だよな」
誰に言うとでもなく、声に出ていた。
ここ暫く、ミラノとローマでストーカーに追われ、どちらも怪我がないのが不思議な程度にはなかなかハードな目に遭ったと自覚している。STEMでの狂乱程でもなく、まして過去戦場にいた頃の混沌と比べるべくはないのだが──それでも、市井での暮らしと考えればなかなかの事件だった。おかげでこの期間、苦手な警察の顔をやたら見る羽目になった。いつしかファンを名乗る物好きな一人とメールでやりとりする仲となる程度には。ミラノは最近治安が微妙らしく、日々警邏と取り締まりに追われているようだ。──それも時世か。
ニュースを見にPCを開いていると時折インカメラがカシャリと撮影してくる。彼に自撮りの趣味はないが、
ガジェットと化した意志を持ったカメラ──オブスキュラとアパーチャー──がPC内から彼の姿を撮影して来るのが決まりとなっていた。カメラの愛情は、ただ撮ることでのみ示される。日々確実に百枚以上は代わり映えしない自撮りインカメラ画像が増えていく算段だ。SSDもクラウドもあっという間に圧迫されてしまうため、インカメラの撮影画像は画素数と解像度を大きく落としてあった。そうしてでも、彼らには好きなように好きなだけ撮影をさせてやりたい。ローマでの出来事以後、更に彼らに甘くなっているきらいは感じる。
部屋の大きなアーチ出窓から昼には早い日差しが差し込んでカーテンを揺らす。窓辺ではフォーカスが長々としたクッションのようになり寛いで寝息を立てていた。夏毛で少し細身になっただろうか? 黒い毛並みに艶やかな虹色の光が散って美しい。
デスクに置いた瀟洒なカップには、マキネッタから注がれたばかりの香り高いエスプレッソ。イタリアに生まれてこれに飽きることは生涯ないだろう、バールで飲むのも良いが、家で好きなだけ甘くして飲む一杯はまた格別に思えた。
耳慣れたインカメラの撮影音にたまに意識をやりつつ、彼はメールをチェックする。いくつか未読の通知が出ていたが、そう重要な予定もなかったのであまりまめには見ていなかった。それよりはウェブニュースで見る紛争地帯の話題や難民情報などに意識が行きがちだったろう、戦場カメラマン(フォトジャーナリスト)時代、かつてあの地で世話になった彼らは今──。見かける画像に見知った顔をどこか探しがちなのは、やはり気になっているからに他ならない。今も安寧が訪れたとは聞かない紛争地帯に生まれた彼ら──。安否が問われる……無論、ここから確認する術はなかったが。
溜まっていた未読メールのうち、バルクではないものは5件。3件は過去仕事で使ったスタジオとメーカーからの営業メールで、1件はクライアント候補からの写真サンプルの問い合わせ。残る1件が仕事の依頼だった。
【件名:アーティスト本人による作品の真贋鑑定を依頼します】
──真贋鑑定?
仕事依頼とは言え、変わった内容だった。
送信者は(それこそ真偽は不明だが)アメリカ在住の実業家を名乗っていた。
寡作なアーティスト「ステファノ・ヴァレンティーニ」の希少な作品を別荘へ輸送中紛失し、再度見つかり手元へ戻すことはできたものの、希少さからコレクターにも真贋がわからない。本来そんな場合は科学分析などに頼ることになるが、そう年代の古いものではなくやはり判定に確実性が欠ける。
作者存命の若手アーティスト作だけに、作者本人が真贋確認したら確実だろう、との事で、実際に来て作品を確認してくれないか──との依頼だった。
添付された写真に写る画は、自分の作品ファイルで見て記憶にあるものだ。
直接では無いので詳細なタッチなどは不明だが、売れた作品のうち一作はアメリカへ出ていたはずだ、販売記録とは合っている。この画だったかは記憶では判別できないが、確認したらすぐに確かめられるだろう。
「画像で見た限りでわかる、大体僕の作品に贋作とかあるわけが……」
──メリットがない……とまで一人言いかけて、しかしローマでのストーカーが脳裏に浮かんだ。
贋作作成をやりかねない存在はいたのだった、知る限り世界にたった一人の希少な存在ではあるが。
あの男は今は塀の中か、あるいは何らかの都合でまたしつこく保釈されてくるのか。──ローマでは被害者が生存し証言できている以上「証拠不十分」はあり得ないだろう、とは確信できている。金輪際二度と縁は持ちたくないが、今回の『贋作』の件が本当であれば、自由に過ごしていた頃の奴の「置き土産」である可能性は充分に考えられた。
「けど僕にアメリカへ行けって? フォーカス連れて行けないんじゃな……海外は厳しいぞ」
彼はそんな内容をごく丁寧な文体へ直し回答した。国外へ行くのは難しい、自作への責任は持ちたいのでどこかイタリア国内であったら場合によっては対応しないことも無い。
半信半疑の返信だったが、その応答はすぐに来た。相手は本気で「依頼」しているようだ。なんらかの手の込んだ悪戯である可能性も、まだ脳裏に捨てきれて居なかったが。
【ヴァレンティーニ氏の快諾を神に感謝します。私がこのプランを思いついたのは私の別荘がアマルフィにあり、同じ国内にあなたの身柄があるであろうと想定できた為です。まさにこれは神のくれた幸運に他なりません。こちらから迎えの車を送るべきなのですが、生憎この地で私はまだ自分の車を購入できて居ません。もしも構わなければ交通にかかるであろう費用を私に請求して下さい】
初めのビジネスメールから崩れた内容。
どうにもクセのある文体だ、と印象を持った。どこかで見知ったような大袈裟な宗教的フレーズは、まるで彼が嫌うところの背の高い黒人神父を思わせた。
「まさかな……」
口をついて出る。


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